チベツト文化圏国際旅行会社
Tibet mountain trip
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チベツト文化圏国際旅行会社に選んだ理由   私達はチベツト本土でチベツト人設立した旅行専門店です、今までお客さんの安全を第一考え、実は誠実、サービス、私達は日本社会の基準で奉仕し、チベツト人の慈悲心で奉仕し、日本人観光客にチベツトの本当歴史を伝えて頂きます。

チベット仏教の歴史

仏教の本家本元は、釈尊が生まれたインドである。チベットは、ヒマラヤ山脈を越えてインドの北隣なので、インドの直系の純粋な仏教を受け継ぎ、

68c6b465d6714297efc4906807a48b0ce03ddaeaf256-pnuhGt_fw658.webp.jpg今日まで守り伝えている。チベットへの仏教初伝については、様々な伝説が語られているが、本格的な伝来は、8世紀の後半にインド哲学の巨匠シャーンタラクシタと大密教行者パドマサンバヴァを招聘したことに始まる。当時隆盛を極めていたチベットの古代帝国は、国家の指導理念を仏教に求め、寺院や僧侶に手厚い保護を加えた。ごく短期間に膨大な経典をチベット語に翻訳するなど、奇蹟的な偉業の数々が達成されたのは、まさに国運を賭けて進めた仏教化政策の賜物である。その後、9世紀の中頃に統一王国は崩壊し、仏教界も大きな痛手を被った。けれども、仏教の信仰は民衆の間へ広まり、好戦的で勇猛果敢なチベット人たちは、平和を愛する心優しい民族へと変貌していったのである。11世紀になると、インドから招いたアティーシャという名僧の指導により、チベットの仏教は見事に再生を遂げた。そして、ミラレーパのような大聖者やサキャパンディタをはじめとする大学僧が輩出してきた。ところがこの時期、本家のインド仏教は衰退へ向かい、13世紀初頭にイスラム教徒の攻撃を受け、滅亡を余儀なくされてしまう。仏教側の最後の拠点だった大僧院の座主はヒマラヤを越えてチベットへ逃れ、大切に守り伝えてきた教えや戒律の全てをチベットの僧侶に託した。このようにして、チベット仏教は、インド仏教の本流をそのまま継承すべく運命づけられたのである。13世紀の中頃、チベット                              

はモンゴル帝国の襲来を受け、




u=32441579,75631992&fm=173&s=B76DC4A64E639ADC100F642C0300804A&w=567&h=850&img.JPEG軍事的には屈服せざるを得な

かった。ところが、宗教面ではモンゴル人をチベット仏教に帰依させる結果となり、

チベットはやがて独立を回復することができた。そして14世紀後半には、ツォンカパという偉大な宗教家が現われ    仏教の複雑多岐にわたる教理と実践を整合性のある一大体系にまとめあげた。これによってチベット仏教は、

思想哲学の面でも実践修業の面でも、極めて充実した内容をもつに至ったのである。チベットで有名なダライ・ラマとパンチェン・ラマの2大転生活仏は、いずれもツォンカパの弟子の生まれ変わりとされている。17世紀中頃、ダライ・ラマ法王をチベット全土の政治及び宗教両面にわたる最高指導者とする体制が確立され、古代王国が崩壊してから久しく分裂状態にあったチベットは、宗教国家の装いも新たに再統一を果たしたのである。それと前後して、チベット仏教は、モンゴル、満州、そして北京にまで広められ、アジア大陸随一の国際的な宗教に成長した。仏教を精神的な共通基盤に、広範な地域の間で文化交流が進み、チベットはその1大中心地として繁栄を極めた。


                                       



                           チベット仏教の四大宗派 

ゲルク派は、最高指導者ダライ・ラマが、チベット国王を兼ねていたため、チベット動乱以後は

最も苦しい立場に追い込まれた。微信图片_20220824192824.jpg6大本山のうち総本山ガンデン寺は、動乱のおりダライ・ラマ側の拠点になったため、徹底的に破壊され、主要な堂塔のほとんどを失った。現在ツォンカパの霊塔を納めるヤンパチェン、ガンデン寺座主の黄金座があるセルティカン、歴代座主の住坊ティクトカンなどが、復興されているに過ぎない。管長にあたるガンデン寺座主(ガンデンティパ)の任期は、原則として4年だったが,これに対しラサ近郊のデープン、セラの2大寺は、比較的よく保存されている。またラサのギューメー密教学堂は、現地に残留するラデン・リンポチェなどの努力により、復興が進められている。これに対してラモチェ寺と、それに隣接するギュートゥー密教学堂の再建は、あまり進んでいない。一方タシルンポ寺は、動乱以後も中国に残留したパンチェン・ラマ10世の努力により、みごとに復興された。パンチェン・ラマ10世は、1989年に再建された先代パンチェンの霊廟パンチェンドゥンリンの落慶法要を親脩した後シガツェで急遽したが、ダライ・ラマと中国が別の転生者を認定した。甘粛省、青海省にあるラブラン寺、クンブン寺(塔爾寺)は、比較的良好に保存されている。これら両寺は漢族地域に隣接していたので、政治的に巧妙に立ち回る術を心得ていたこと、ダライ・ラマよりパンチェン・ラマに近い高僧が多かったことなどが、破壊を免れた原因ではないかと思われる。






カギュー派は多くの支派が分立し、統一的な組織は存在しなかったが、チベット動乱以後ダライ・ラマ亡命政権071a-hhzsnec2242225.jpgによって、第16世カルマ黒帽ラマ、カルマ・ランジュン・リクペードルジェ師(1942-1981)が、カギュー派全体の管長に任命された。カルマ黒帽ラマは、チベットの活仏中最古の名称であり、亡命後のチベットでも追慕する信徒は多かった。師は亡命後アメリカの開教に成功し、多数の信徒を獲得するなど、亡命チベット人の中でも有数の成功者に数えられた。カルマ派は、カギュー系諸派の中でも、とりわけ密教への傾斜が強かったので、神秘主義を好む欧米人にアピールするものがあったのだろう。師はさらに、カルマ派の管理下に会ったデルゲ版『チベット大蔵経』の復刻に乗り出すなど、旺盛な活動で知られていたが、1981年ガンのため惜しくも亡命先で遷化した。その後転生者が捜索されていたが、1992年に至ってカム出身のウゲン・ティンレー少年が、第17世としてチベット自治区とダライ・ラマ亡命政権から相次いで認定された。この他カルマ派には重要なものだけでも4つの活仏の名跡があり、現在はニューデリーに亡命中のカルマ赤帽ラマを中心に、集団指導体制がとられている。またアメリカで活躍したチューギャム・トルンパ師など、カルマ派に属する活仏は多い。これに対してディクン派の指導者は、ディクンチェツァン・リンポチェである。カルマ派と異なり、ディクン派はチェンガと呼ばれる管長が宗派を統括する伝統があり、転生ラマ制度の導入が遅れたので、現活仏は第7世である。ダライ・ラマ13世の側近ツァロン大臣の一族で、長らく中国に拘留されていたが、1975年にインドに脱出し、ラダックで修行した後、インドのデラドゥンに建立したチャンチュプリン寺を根拠地として、布教活動を行っている。方ドゥク派は、ブータンで国教の扱いを受けている。ブータン宗教界の最高指導者ジェケンポも、この派から任命されている。



サキャ寺は、サキャ派政権の崩壊後もサキャ派の総本山として繁栄していた。しかしチベット動乱後、u=2995192255,2581713828&fm=173&s=DBD4D7AE40428EE65633B5A903007008&w=600&h=404&img.JPG主な宗教指導者は国外に亡命し寺も衰微した。現在サキャ北寺は、完全に破壊されて跡形もないが、南寺は比較的良好に保存されている。特に南寺本堂裏の書庫に保存されていた厖大な

文献が難を逃れたのは、不幸中の幸いといわねばならない。

クン氏の後裔は4つの系統に分裂したが、現在はドゥンチュー・ラタンと呼ばれる血統が有力で、ドルマ・ラカンとプンツォク・ラカンの2つの家系に分裂している。現在のサキャ派管長はドルマ・ラカン出身の第41世ガクワン・クンガ・テクチェン・ペンバル・ティンレー・サムペル・ワンギ・ギェルポ師で、1964年亡命先のインドのラジプルにサキャ・センターを創建し、これを中心に活動を行っている。また近年は、アメリカをはじめ、シンガポールや台湾にも教線を拡張している。これに対してプンツォク・ラカンの代表者は、ダクチェン・リンポチェ(1929-)で、シアトルのサキャ・テクチェン・チューリンを中心に活動している。

クン氏に属さない新サキャ派の中では、ツァル派の代表者チェギェー・ティチェン・リンポチェ(1920-)が有名である。仏陀誕生の聖地ルンビニにチベット寺を創建するなど、ネパールを中心に活動し、シェルパやタカリなど、チベット系の少数民族に支持者が多い。またゴル派の活仏の1人タルツェケン・リンポチェは、わが国に帰化して祖南洋(そなみひろし)と名乗っていた。『西蔵曼荼羅集成』などの著書があったが、1987年に逝去した。



ニンマ派は他宗と同じく、チベットのニンマ派寺院も、文化大革命中に大きな被害を受けた。総本山ミンドゥルリン寺、

wKgBEFr2Y5CAFGTYAAXQF50_ZXg62.jpegドルジェタク寺も例外ではなく、宗教活動はほぼ停止するに至った。このうちミンドゥルリン寺は、インドのデラドゥンに再建された。管長のミンドゥルリン・ティチェンは、ニンマ派の伝統的な最高指導者であるが、創設者テルダクリンパの一族による世襲制のため、必ずしも宗教的資質に恵まれた人物が就任するわけではない。一方チベットのミンドゥルリン寺は、荒廃するにまかされていたが、近年再建が始められた。1991年にこの本の著者が調査したところでは、居住する出家僧の数は約40名、かつて寺の周辺に居住していた、ニンマ派独特の在家密教行者はいないとのことであった。またニンマ派のもう1つの根拠地であったカム地方も、チベット動乱から文化大革命に至る時期に、大きな被害を受けた。しかし、現在世界で活躍しているニンマ派の宗教家には、またケーサンサンポ師は、現在ではニンマ派でも珍しくなった在家密教行者であ。本来は転生ラマではなかったが、学徳が認められてリンポチェの称号を与えられた。ネパールのボードナートを中心に活動し、欧米人の弟子も多い。

ニンマ派には、アメリカにニンマ・インスティチュートを創立したタルタン・トゥルクなど、欧米に布教し有名になった指導者が多い。またわが国在住のニンチャン・リンポチェも、ニンマ派に属している。





    

              チベットについて>チベットの文化と習慣>くらしの中の信仰(オム・マニ・ペメ・フム)

「オム・マニ・ペメ・フム」(Om・Mani・Padme・Hum)は、チベット仏教徒によって最もよく唱えられている真言(マントラ)である。微信图片_20220824194544.jpgチベットでは、このマントラを声に出したり、岩やマニ車、ヤクの頭蓋骨などに彫られたり書かれたりしたものを多く見かける。ほとんどが仏教徒であるチベット人は、慈悲の化身である観音菩薩のこの真言を唱えることによって、悪業から逃れ、徳を積み、苦しみの海から出て、悟りを開く助けになると信じているのである。

真言(Mantra)とは?

真言は他の言語に翻訳することが難しく、この質問に対して明確な答えを出すことは難しい。「オム・マニ・ペメ・フム」(Om・Mani・Padme・Hum)は、細かく分けるとオム・マ・ニ・ペ・メ・フムという六つの真言(Six-syllable mantra)で構成されている。ダライ・ラマによると、これら六つの真言は、私たちの不浄な身体・言葉・思考を、完全に統一された秩序と知恵の教えの道に導くことにより、仏陀になれるということを意味しているとのことだ。

◆ オム(Om)

私たちの不浄な身体・言葉・思考とともに、高尚純粋な釈迦の身体・言葉・思考を表している。「悟りの道を開いて純粋な境地に到達したとき、過去の不浄から負の属性を取り除き、不浄な身体・言葉・思考も変わることが出来る」と釈迦は説いている。その意味がこの言葉に集約されている。

◆ マニ(Mani)

宝石を意味する。秩序、慈悲、他者への思いやりなど悟りを開くための要素を表す。「宝石が貧困をなくすことができるように、利他主義的な悟りの境地は、貧困・孤独を取り除くことができる。宝石が私たちの望みをかなえてくれるように、利他主義の心によって悟りを開き、私たちの望みは実現される」とダライ・ラマは言う。

◆ ペメ(Padme)

蓮を意味する。知恵を表す。泥の中に生えていても泥に染まらない蓮は、私たちを矛盾から救い出す知恵の本質を示している。

◆ フム(Hum)

分離できないものを意味する。秩序と知恵が調和することにより至る純粋なる境地を表す。


チベット及びチベット文化圏では、寺の参拝、ダライ・ラマ法王や高僧の謁見、宗教の儀式、知人・友人の送迎、微信图片_20220824195841.jpg

子供の誕生日、結婚式、葬式など様々なシチュエーションで、カターと呼ばれる白いスカーフを挨拶しながら相手に渡す習慣がある。カターの「カ」は口で、「ター」は布あるいは印(しるし)、誠心誠意、心からの敬意を表している。つまり、カターを相手に渡すことにより、自分の心からの敬意を表すという挨拶の印なのである。

一般にカターは白色が使われる。白には純粋な気持ちを表す。この他、青、赤、黄、白、緑の五色のカターを宗教的の儀式や供養などの目的に応じて使用する場合もあるが、その機会はあまりないといえよう。チベット仏教を信仰しているモンゴルでは、高僧の謁見の際に、五色のカターを重ね合わせて献上する風習があり、五色のカターを盛んに使用しているようである。大昔のカターは羊毛製であったといわれている。現在でもチベッの奥地では羊毛のカターが使われている。昔のチベットでは(今も行われているかもしれないが)、吉日や大切な日の早朝、家の屋上や玄関で香を炊き祈る習慣があった。そのときに家人は、頭に必ず羊の毛を数房付けて供養していた。未の毛に何か象徴的な意味合いがあるかもしれない。確かに、カターの由来はこうした供養の際に頭に付けた羊の毛が変化したものと言われている。チベット人は、日常、家の屋上、寺の中央、山頂、峠、橋や水辺などに、経文を印刷した魔除けと祈りの旗「ルンタ」(別名「タルチョー」)を掲げ、「ラーソル」(土地の精霊や仏を拝み焼香すること)の習慣がある。「ルンタ」は、自然災害、不作、家畜や人間の伝染病、旅、巡礼、新築、結婚式、新年の祭りや宗教的な行事などの時に、その土地や家の悪霊や災難を祓い清め、すべての生きとし生けるものが平和で幸福と健康に恵まれて過ごせるようにという祈願が込められている。



カターを大きくわけると(良い材質の順に)、ナンゾ(Nanzod)、ソクダル(Sogdar)、バルゾ(Barzod)、微信图片_20220824200247.jpg

アシェ(Ashi)、スプシェ(Supshe)、チゾ(Chizod)、ソタック(Sotak)、カチ(Kachi)の8種類がある。最後の2つのカターの材質はいいものとは言えない。カターの中で最高とされるのは、絹で作ったナンゾで、これにもいくつかの種類がある。真ん中に運勢を強くするナムチュワンデンとその周りに八吉祥(タシタクゲー)、両端にチベット語で、「ニモデレ・ツェンデレ・ニツェン・クントゥ・デワタン・クンチョク・スムキ・タシーショク」(『昼も元気で、夜も元気で、いつもまでもの元気で、三宝の(仏・法・僧)ご加護がありますように』)という文字を描かれているナンゾが最高級のカターである。こうした最高級のカターは、ダライ・ラマ法王や尊敬する高僧に挨拶に伺う時に用いられる。上等な絹でつくってあるため、当然、値段も張る。次に良い材質のカターのソクダルは、ダライ・ラマ法王を謁見してその印として頂く物で、もともとは青色だったが、現在は赤色のみが使われている。次のバルゾ、アシェ、スプシェなどのカターは、巡礼、参拝、結婚式などで多く使われる。カターは、葬礼にも使われる。遺体にカターをかけ、火葬場へ送る。使用されるカターは、何もかかれていない真っ白なものがベスト。当然、このような悲しい場に吉祥紋やおめでたい文字が書かれたカターが使われることはない。



11世紀の半ば、チベットのガリ地方で仏教の再建に力を入れていたグゲの王イシェオは、数回にわたって翻訳官微信图片_20220824201102.jpg微信图片_20220824201109.jpgをインドに派遣してアティシャ(老師)をチベットに招いた。当時、アティシャは既に60歳過ぎていたにもかかわらず、チベットのためにネパール経由でチベットに渡った。当時、チベットの高い山々を越えるのは大変、困難で高山病にも悩まされたという。やっとの思いでグゲに着いた時、イシェオの長男チャンチュプオ王をはじめ、市民らに歓迎されたが、長旅によって体力はかなり消耗していた。長男チャンチュプオ王はアティシャに三回五体投地の礼拝をし、宝石類を奉納した後、「老師よ、このお飲み物を召し上がってください」とバター茶を注いだ。

アティシャは、バター茶を飲む前に、「行者、知識人たちの願いがかない、釈迦の教えが益々繁栄されますように」と祈願文を唱えた後、茶を飲んだ。アティシャは、それまでバター茶を飲んだことがなかったが、その後、体力見る見るうちに体力は回復した。アティシャは「チベットにこのようなおいしい飲み物があるとは知らなかった。この飲み物は素晴らしいものだ。これを飲めば喉の乾きをうるおい、血行をよくし、頭が冴え、体力が回復し、眠りから覚め、善良を積み重ねる原動力にもなる」と語ったという。


                         チベットで儀式使う法具

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たくさんの法具のなかでも、特によく目にするのが、これです、チベット語でドジエと言います、日本では「金剛」とか「独鈷」などと呼ばれて


います。


雷とダイヤモンドと言う2つ意味があり、すべでの対立を調和に導く「空」のエネルギーの象徴です。



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お寺の屋根などでよくあるのがこの法輪です、チベット語では「コルロ」と言います。

これは仏の教えそのものを意味しでいます




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この鈴は始原の音や、空を表しています。

法要の時はお坊さんが先ほどご紹介したドジェを片手に、もう片方の手にこの鈴を持つ姿がよく見られます。





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こちらは髑髏の杯です。


これには呪術な力があると言われていて、生命力を象徴しています。だいたい、この髑髏の杯血で滿たされています。







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